「創作が自分を一番活かしきれる」 澤登義昭さん
- mitakaacs
- 2015年3月23日
- 読了時間: 6分
インタビュー Vol.3
澤登義昭さん ( 画家)
三鷹市下連雀 在住
2015年バレンタインデーにご自宅へ訪問させていただきました。お母様と飲食店をされていたという建物を使いやすいように改造して2階をアトリエにしているそうです。
2階アトリエの撮影をお願いしたところ、1階にも作品があるということで、そちらを経由してご案内いただくことになりました。
まずは、1階にある作品をご紹介いただきました。

右側の写真は1階の様子です。所狭しと作品が置かれています。その多さに驚かされました。
左側の作品は「これは、今一番、気に入ってるデッサン。画廊には送らない。昔、額縁屋に勤めていたから自分で暇なときに額作ってさ」と愛着の深さを感じます。
次にアトリエのある2階へ案内いただきました。
2階にも作品が多く置かれていました。
制作途中の作品をはじめデッサンも数多くありました。
裸婦デッサンをはじめ顔をモチーフにした作品です。ひとつひとつ、作品を紹介いただきました。
アトリエで作品の制作についてお話を伺いました。
<顔>
聞き手「正面を向いた顔の作品が印象的で宗教のイコンのようなイメージを覚えました。」
澤登氏「うん。でも、みんな真面目に顔を描いていたらそうなるよね(笑)。そりゃ信仰がなくてもイコンぽくなるじゃない。やっぱり対象に対してのひとつの愛情というかそういうのがあるからね。」
聞き手「顔ってそういうものかもしれませんね。」
澤登氏「人間が見るんだから顔が一番存在感あるよね。鑑賞するのも描くのも人間だし、花とはまた違う。だから、花ならいいけどこういうのは怖いから嫌だという人がいるよ。」
聞き手「怖いと?」
澤登氏「最近はそうでもないけどね。周りの人も昔はみんな若かったから、今はもう60も過ぎれば慣れてくるからね(笑)。ダヴィンチの顔だって優しいようだけどあれは見てると怖いかもしれない。見透かされている感じでね。怒ってる顔じゃないけど、モナリザでも微笑しているけど、怖いっていうか恐ろしい絵だよ。人間が描いたとは思えない。なんか宇宙の果てから降りてきた感じだよね。それはダヴィンチが描いたからすごい。才能としか言いようがないな。」
<ルオー>
聞き手「なるほど、イコンで思い出したのですが、ルオーの作品に近いとも感じますね。」
澤登氏「ルオーは好きだよ。太い線が好きでさ、細かいことにこだわらなくてさ、あんなふうになりたいけどな。ああいうスタイルとは言わないけど、ああいう気持ちで描きたいよね。迷いのない線で。やっぱり迷いのある線で描くとどうしても見る人がわかるんだよね。」
こんなお話をしながらでしたが、ひと通り2階をご案内していただいたところで、1階に戻りお話を続けました。
<三鷹>
聞き手「ありがとうございました。さて、落ち着いたところで、三鷹についてお聞きします。お生まれも三鷹ですか?」
澤登氏「そう、生まれたのは武蔵野市境の方、玉川上水端、三鷹のいいところは、店はなんでもあるし、そんなに人も多くないし、井の頭公園もあるしね、あそこを自分の庭だと思えばね(笑)。」
聞き手「なるほど、その三鷹で創作活動を始められたんですね。きっかけはなんですか?」
澤登氏「多摩美(多摩美術大学)を出たんだけど、グラフィックデザインだったので学生時代はほとんど油を描いていなかったんだよね。卒業してからおふくろと二人でここの奥の部屋でスナックを始めたんだけどさ。なんか喧嘩ばっかりしててさ、イライラずっとしていて、そういうのもあったかもしれない。それで、絵を描いてた。」
聞き手「卒業してから油絵を描き始めたんですね。」
澤登氏「そう、まあ学生時代も2,3枚は描いたことあるけど。大学でグラフィックデザインを選んだのは、あの頃、横尾忠則とかなんかすごい人気のデザイナーがいたじゃない。ああいう仕事ができると思っていたんだけど実際はそうでもないみたいでね。やっぱり普通は、お客さんの注文通りにやるから。デザインは体質的に合わないと思ったよ。」
聞き手「それで、卒業してから絵を描こうと?」
澤登氏「徐々にだけどね。あ、言い忘れてたけど、学生時代は音楽の方が好きだったんだよ。」
聞き手「音楽、意外ですね。サークルとかですか?」
澤登氏「学生時代からバンドやってて、最初はロックやっていた。秋田までキャバレーにバイトで弾きに行ったけどな3週間くらいピアノトリオと歌一人の4人で。卒業してからたまにライブハウスでバンド組んでやってた。腱鞘炎なったからやめたけどな。」
聞き手「そうだったんですね。その後、音楽は?」
澤登氏「5,6年前からまたちょっとやったんだけどね。展覧会のオープニングの時に演奏したよ。そのときにはエレキベースだったけれどね。でも、今はやってないやめた。」
聞き手「そうですか。このお写真もカッコいいですね。」
澤登氏「25歳ぐらいかな。三鷹公会堂で、友達が日本舞踊やっていてさ、その幕間にやってくれって。その時の写真。この頃から絵を描き始めてたんだよね。多摩墓地のとなりに離れを借りてて。そこなら音を出せるかなてことで。隣に住んでいたのがたまたま武蔵美(武蔵野美術大学)の油絵科の学生で、たまに一緒に飲むじゃない。すると絵の話をするんだよね。いろいろ画集とか貸してくれてさ。そして、ますます描くようになっていった。偶然だよ。中村彝の『芸術の無限感』とか貸してもらって影響を受けたよ。その頃は若くて感化されやすいから(笑)。」

写真(ベーシストは25歳前後の澤登氏)
「三鷹公会堂で、友達が日本舞踊やっていてさ、その幕間にやってくれって。」
<創作活動とは>
聞き手「そして、今に至っているのですね。最後になりますが、現在の澤登さんにとっての創作活動はどういったものでしょうか?」
澤登氏「ほかのものより絵を描いている方が自分を一番活かしきれると思っている。あと、復讐みたいなところもあるよね。怨念を持って。逆に絵を描いている自分が気にくわなくて、そのリベンジを絵に投影しているのかもしれない。かといって、絵を描いている方がやっぱり充実している。ちょっと矛盾してるんだけどさ。やっぱりリベンジってあるよね。多分、自分自身に対してじゃないかな?」
聞き手「ご自分自身と言うと?」
澤登氏「社会とうまくいかない自分とか、人間関係がうまくいかない自分とか、誰だって不満はあるでしょ。」
聞き手「そういったものが、描いていると消化できるのかもしれませんね。」
澤登氏「それだけじゃないけどね。なぜ描くか?なんて自分で分析するのは難しいよね。日曜画家なら週に1日ぐらい描いていると楽しいかもしれないけど、毎日描いていると楽しいなんてない。たまにいい物ができた時も喜びと同時に空虚感もあるよね。虚しさというか。いい物ができればできるほど、『俺はどうなるんだ?』『どうなんだ?』というのも頭をよぎる。けど、次へ向うしかないね。」
こうして、インタビューを終えました。「次へ向かうしかないね」という言葉が心に残りました。また、お会いできるのが楽しみです。
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澤登義昭 Yoshiaki SAWANOBORI (三鷹市下連雀在住)
<展覧会情報>
三鷹アーティスツネットワーク展
会期:2015年5月12日〜5月17日
会場:三鷹市美術ギャラリー
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インタビュー
2015年2月14日(土曜日)
聞き手:越川さくら
記事:沼田直由
写真:伊藤真矢子・越川さくら