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ヴィジョンを持って活動するアマチュアオーケストラ 三鷹市管弦楽団 団長 辰口陸男

インタビュー Vol.7 辰口陸男さん(三鷹市管弦楽団 団長)

三鷹市管弦楽団は三鷹市市民文化祭などで地域に根付いた活動を続けている三鷹市を代表するアマチュアの楽団です。音楽という分野で地域の方々に向けた活動を長く続けています。

今回は、楽団のホームグラウンドともいえる三鷹市芸術文化センターにて、団長の辰口氏からお話を伺いました。辰口氏はご自身もフルートを演奏され、楽団のことを一番知る団長として活躍されています。

楽団のことを一番よく知る団長とフルート

辰口さんは何をきっかけに入団されたのでしょうか? 私は楽団のスタートの2年後、昭和 34 年(1959 年)に入団させていただきました。今は閉園しましたが『ひばり園』という保育園がありました。『ひばり園』で毎月 1 回レコードコンサートをしていまして、私も常連でした。その年の年末の例会に小さな楽団が出てきて演奏を始めたのです。レコード鑑賞会と思ったところが楽団が出てきたのが意外でした。大学に入ったばかりだった私は臆面もなく「実はフルート初めて 2 年目なのですけれど入れてください。」とお願いしました。 『ひばり園』での出会いから50年以上になりますね。ところで、フルートを演奏されるとお聞きしましたがどういうことがきっかけで始められたのですか? 母の友人から、大学の入学祝いとしてフルートをプレゼントされたのが契機です。フルートという楽器には中学生の頃から関心があったのですけれど、ただ綺麗な音だなと思っていただけでした。でも、プレゼントされたので、それじゃ吹いてみようと思いました。随分いい加減なきっかけですよね(笑)。 フルートを始められた後は先生について練習されたのですか? 大学では部活で先輩から教えてもらいました。三鷹オケの先輩にプロみたいに上手な人がいましてね、教えてもらっていました。実はフルート始めて 50 年を過ぎていますけどね、先生についたのはこの最近 6 年です。今の師匠は息子ぐらいの年代なのですが親切で熱心な方です。まずは、長年のあまりに積み重なったサビを落とすためにご苦労をかけています(笑)。

長く続く『地域に密着した活動』

三鷹市管弦楽団は歴史があるオーケストラと伺っていますが、どのようにしてスタートしたのですか? そもそもは市民文化祭に発祥するのです。昭和 29 年(1954 年)に合唱のサークルが発表会としてを演奏したのが市民文化祭の第 1 回だと聞いています。合唱サークルは当時第六小学校の音楽の教諭をなさっていた山本榮太郎先生が指導して毎年発表会をしていたのです。また、私たちの楽団の創始者の小堀浩之先生という方が山本先生と個人的に親しくされていました。合唱団の発表というとピアノで伴奏するのが一般的なのですが、「小堀さんどうだろう、弦楽主体にしたアンサンブルで伴奏してもらえないだろうか?」ということで始まったようです。そこに集まったメンバー、本当に十何人かの小さなメンバーでしたが、せっかく集まったのだから活動を続けていこう。ということになりましてね。スタートしたのは昭和 32 年(1957 年)ですね。当初は小堀先生の指導で活動をはじめ、その後客演指揮者制度を導入して現在に至ります。先生の一番の大事な考え方は『地域に密着した活動』ということでした。これをいつもおっしゃっていて、三鷹市役所に足を運んで、「市の行事で活動できるところはないか?」と運動をしてくださって、それが活動のスタートになったと聞いています。 『地域に密着した活動』ということを軸にスタートしたのですね。昭和32年から楽団を長く続けてらしていろいろなことがあったと思います。例えば活動を中断せざるえないことなどが無かったのでしょうか? 活動を中断したことはありませんね。停滞したこともありません。スタートした時には、楽器ももちろん満足に揃っていないし手探りでした。人数の増減が激しいことはありましたけれど、活動が止まってしまったということはありません。スタートしてしばらくすると滞りがちになったり、もったいないのに解散したという楽団の話を聞くことも時々あります。当楽団の場合も人数もだいぶ減って、管楽器がいなくなって弦楽器だけの時代がありました。その時には、私ひとりだけ邪魔なフルートになりましてね。おまえ休んでてくれよって(笑)。それでも、ずっと活動は継続しました。その後、努力が実ってメンバーは徐々に増えていきました。今約 70 名ですね。

民主的な運営をすることが活動の大きな力

どんな楽器で演奏するのでしょうか? オーケストラに必要な楽器は大体います。一般的なオーケストラ編成と言いますと三管編成という言い方をしてフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、トランペットが各3名とホルン、トロンボーンとそれから弦楽器、打楽器、でそういう編成はもうしっかりとできています。たまに必要になってくる特殊な楽器で外からお手伝いをお願いすることはあります。 メンバーはどんな方々でしょうか? 男女はほぼ半々ですね。年代はまちまちです。大学出たばかりの方や 76 歳の私や、昭和 10 年生まれという方もいますね。活動を運営する中心は30代から50代の社会的にも安定している人たちが中枢になっています。 運営する方々が安定している人たちだから長く続いてきたわけですね。 そうですね。初代の大條(おおえだ)団長が「誰か一人の指導者に頼っているということでなくて、君たちが自主的な民主的な運営をする。これが継続させるための一番の力になるよ」と教えてくれました。それが今でも脈々と受け継がれています。そして、運営する人も社会的に地位が上がってきてなかなか時間が取れなくなってくると少しずつバトンタッチしてリレーをしてきているという現状ですね。 『民主的な運営』がベースになっているということですね。さて、楽器の演奏は上手下手の差が出てくるのでそういったところで組織の中で問題になったりする部分はありますか? それは無いように努めています。問題になりそうな人もいるし、フーフー言ってやっとついてくる人もいるわけです。それをうまく埋めるような形で運営組織のスタッフとは別に技術委員というスタッフを作っていましてね。これがそういう要の部分や全体をうまく調和させます。曲目の選定もありますし、あるいは外からの指揮者のことなど、音楽をすることに関しての役目を担うのが技術委員なのですよ。同時に緩和剤的な働きもしてくれています。

ヴィジョン

次回(2015年12月)の定期演奏会に向けて追い込みと聞いているのですが? 先週も練習のときに指揮者の先生から厳しく叱られてきました(笑)。仕上げの段階に入って、練習にも熱がこもってきています。三鷹市からいろいろ保護されている面があるので、それだけの信頼に答えなければいけない。もっとうまくならなきゃいけない。もっとお客さんに満足してもらわなければいけない。そのような意識に変えるために Vision2015 という運動を 5 年前からやっています。提唱に賛同して、ただ簡単にそれについていく人もいるし、必死になって汗びっしょりになってついていく者もいるわけです。ただ、「気持ちを切り替えよう」というこの運動は効果がありました。その当面の目標として選んだゴールが2015 年、今年の定期演奏会です。 ヴィジョンを持ってやっているからこそ技術力も上がりますよね。 上がりますね。意識改革をすることによって、やはり自宅で練習する回数も増えるし、そうすると全体練習の場に望んでも仕上がりが高まってきますからますます上がってくるわけです。 12月の定期演奏会ではVision2015の成果を発表する場ということで楽しみですね? いや。怖くもあり、期待でワクワクでもあるし、まあ怖さのほうが大きいかもしれません(笑)。

親子音楽会の子こどもがメンバーに

いい成果が得られるといいですね。定期演奏会のほかにも親子音楽会も楽しそうですよね。 先ほど申し上げました創始者の小堀先生が市に活動の場がほしいと運動して、それではやらせてみようかということで始まったのが親子音楽会なのです。昭和 42 年(1967 年)からスタートして今年の3月が 105 回でした。当初は年 5 回していたことが数年ありましたね。 50年近く続いているということになりますね。このとき参加していた子どもたちが大人になって団員になったりすることはあるのですか? はい。何人かいますね。お父さんお母さんと一緒に会場で聞いていて、ヴァイオリンのレッスン始めたばかりフルートのレッスン始めたばかりで、「あー、あそこで一緒に演奏したいなぁ」と思った子たちがいたのですね。そのうち何人かは念願かなってメンバーになっています。

矢吹町民の歌から始まった『矢吹町公演会』

ほかにも『矢吹町公演会』という福島県での活動をされているようですが、どのようなきっかけで始まったのですか? 矢吹町は三鷹市と姉妹都市の関係にあります。矢吹町で矢吹町民の歌を作って録音をしようと企画して、その録音を一般の町民の方に広めるためにレコード化しようということになったのです。それで、姉妹都市だった三鷹市に相談があったわけです。三鷹市の教育委員会から私たちに声がかけられました。歌は矢吹町で録るのでカラオケのオケ伴奏の録音を作って欲しいという依頼をいただきました。それが、昭和 52 年(1977 年)です。その録音を持って向こうに行きまして、町民の方が歌ってソノシートを作りました。これがきっかけになって、演奏会をやって矢吹町の人たちにも演奏を聴かせてくれませんか?ということに発展して翌年から3年に一度、お邪魔するようになりました。前回は昨年に14 回目、前々回は13回目で東日本大震災があった平成 23 年(2011 年)でした。 矢吹町は震災の被害はなかったのですか? 人的被害はなかったようですけれど家屋の全半壊はあったようです。 そのときにも演奏会をされたのですね。 演奏会は毎回夏、だいたい 8 月か 9 月なのですけれど、震災の年はそんな場合ではないだろうなと思いながら、矢吹町の教育委員会と相談したところ、来てくださいということになりました。三鷹市と矢吹町の年間の事業はたくさんあるのですけれどもその年は私たちの「矢吹中学校芸術鑑賞教室」の事業だけで他は全部中止になりました。復興の方が重要課題ですからね。

さらに歩み続ける

今後はどのような方向性を考えていらっしゃいますか? いろいろ議論もあるのですけれどね。当然、同じベクトルで行くことになります。Vision2020 を設けるかというところまで話は進んでいません。でも、終わったから休んで汗拭いてジュース飲むわけではないのです。やっぱり歩き続ける必要があるわけです。それは、みんな同じ共通の認識を持っていますね。ただ今のところ次に何を設定しようかという議論には至っていません。でも、ここまで来て、みんな欲が出ていますから「このままどんどん歩いていきたい」という気持ちをみんな持っていますね。

――――――――――――――――――――――――― 三鷹市管弦楽団 Mitaka City Orchestra 辰口陸男 Rikuo TATSUGUCHI (三鷹市下連雀在住) ――――――――――――――――――――――――― インタビュー 2015年12月

Photo提供 三鷹市管弦楽団 Interview/Text Web Edit  沼田直由 ―――――――――――――――――――――――――

<インタビューを終えて> 辰口氏は演奏会などのイベントのアーカイブをしっかり作っていらっしゃいました。そして、その一部を拝見させていただきましたところ、詳細な項目でデータベース化されていることに驚きました。「少しずつバトンタッチしてリレーをして長く続けてきている」とおっしゃいましたが、それを実現するための工夫もしっかりされていると感じました。これらをもとに、今後も確実に歩み続け、メンバーが変わっても三鷹市管弦楽団の歴史は続いていくだろうと感じました。そして、これからも、素晴らしい演奏を聴かせていただきたいと思いました。

"tsu-na-ga-ru"のインタビュー

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